ニューヨーク酔夢譚

第二章 「有終会」文集

                                       平成24年(2012) 6月10日
                                          「有終会」文集
                                           井上 篤次郎

1.夢、だったのか

 「酔っ払っていたのと、違いますか」、と言う。うーん、そうかもしれない。
同じように神戸商船大学を出てロンドン大学で博士の学位をとったはるか後輩と
飲んでいたときのことだ。そう、夢だったのかもしれない。
あの頃、無性にアメリカに行きたかった。神戸商船大学で助手をしていた26、27歳の頃である。
東部の10大学ぐらいには手紙を出しただろう。そのうちある教授から自分は近々他の研究所に変るので
引き受けられないが、ニューヨーク大学のピアスン教授を紹介する、との手紙を貰った。
波浪研究の大物教授に手紙を出すなんて考えてもいなかった。
自分の希望を述べ、波の質問などをしているうち、ピアスン先生から、出た大学の卒業証明書、成績証明書、
今やっている仕事、今後の抱負、お前のことをよく知っている教授の推薦状を送れ、といってきた。
出しはしたが、すぐ忘れた。

2.ニューヨークへ 夢の始まり

昭和37年(1962) 6月末の月曜日午後、学生の実習で安芸の宮島まで4日間の航海をして大学に帰航したら
ピアスン先生から手紙がきていた。
以下の条件で了承するなら、1962年9月1日9時に自分の研究室に来るように、と。
その条件内容とは、
1. 助手。
2. 月給は300ドル、勤務時間は9時から17時。週5日35時間。
1年たてば有給休暇20日。
3. 大学院の授業は毎学期3科目9単位まで履修できる。授業でぬける時間は夜または土曜日に勤務。
大学職員なので授業料はタダ。
さらにJ-1ビザ取得のためニューヨーク大学が身分保証する書類まで同封されていた。
突然、夢が現実になった。いや、夢の始まりだ。

3.えーっ、車で大陸横断

 当時月収1万円。ニューヨークまで航空運賃500ドル、360円レートで18万円。
そんな金はない。有難いことに神戸商船大学航海科卒。当時の日東商船が貨物船で
手伝うという名目で、タダで横浜からサンフランシスコまで乗せてくれることになった。
手紙をもらってわずか一ヶ月、身辺整理し当時許されていた外貨200ドル(それでも72,000円、半年分だ)を
もって7月30日横浜出帆、8月11日サンフランシスコ着。
昭和31年に「帆船日本丸」の遠洋航海できており土地勘はある。
登山用のキスリングとよぶリュックを背負いYMCAホテルに行った。
荒天で入港が一日遅れ、予約していた部屋がない。
困っていたら若いアメリカ人が寄ってきて、山へ行くのか、と問う。
いや、ニューヨーク、New York University、と答える。自分らは兄弟でボストンから車で来て、
これから帰るところ。部屋がないなら、自分らの部屋にベッドをいれてもらえ、と。
その後、ガソリン代を60ドルシェアーするなら、自分の車で大陸横断しニューヨークまで約束する、と言う。
よしっ、これや。
そして、その夜からチャイナタウンあたりの盛り場を23歳と19歳の兄弟と遊ぶ。

4.ミートゥー

近所の友人がロスアンジェルスにいるのでまずロスに行くが、その後お前の行きたいところに行く、と言う。
かくして8月13日午後、ロスに向け出発。
車はオンボロ元高級車「New Yorker」。夜は路肩で車内泊。砂漠の真ん中で日の出とともに暑くて眠れない。
近くの食堂で朝食。食べ物は、飲み物は、とウェートレスがきく。
ポール(兄のほう。グランドキャニオンで撮った写真の中央)が、オーレンジ、と言った。
おれも、覚えたての言葉、ミートゥー、オレンジジュース、と言った。周囲の反応がおかしい。またきく。
なにーっ、という感じ。ハッと思った、オレンジとオレンジジュースは別物だ。
ジュースは果実を絞ったもの、高い。オレンジはバヤリースのようにただの色つき水。
お前がそんな高いものを注文するのか、だったのだ。胸を張って言った、「Me, too. Orange!」



5.ポンコツは「ルート66」を東へ

 ロスの友人は新婚でベッドはあるのか心配したが、毛布を1枚ずつもらって居間で雑魚寝。
ホッ、これでいいのだ。

ロスからはいよいよ大陸横断。ポンコツはスタインベック「怒りの葡萄」の「ルート66」を東へ。
希望通りグランドキャニオン、サンタフェ。北に折れてデンバー。ミシシッピーまで下り坂。
オマハ、シカゴ。クリーブランドまで来たときポールが言う。
もう金がない、家に帰る、ニューヨークはそのあと、と。
有料道路を横に見て一般道をよたよたとボストン北の彼らの田舎町へ。
2週間の大陸横断中、屋根の下で寝たのはロスとデンバーだけで、あとは路肩で車内泊。
疲労困憊。ポールの家で丸2日ほど昏々と眠った。

6.ウイアー イーブン

 9月1日、ブロンクスの高台にあるニューヨーク大学気象学・海洋学科の生活がはじまった。
20㎡ほどの研究室にわたくしを含めて助手3人。
2人ともユダヤ教徒アメリカ人で、歳は三つ五つわたくしより若かった。
 年嵩のライオネルが、インスタントコーヒーを買ってきたが98センなので3で割り切れない、と言う。
自分らは33セン出すが、お前は来たばかりだから32センでよい。
そして「We are even.」、これで貸し借りなし、と厳かにのたまつた。細かい。


 お金といえば、ない。大陸横断、部屋代、食費などで、ないっ。形振りかまっていられない。
主任教授の秘書に、お金貸してほしい、と頼んだ。
月末には9月分のペイチェックが郵送されるから心配しなくてよい、と言う。
いや、いま、ないっ。呆れた顔をされたが、学科の金を100ドル貸してくれた。
しばらく後ライオネルが、今度来たジャパニーズはグッドルキングだ、と秘書が言っていたぞ、と。言う。
これは、実にいい情報だ。女性は大切に、そして、ニューヨークで暮らせそう、と思った。

7.タコ ト イー

新学期がはじまった。助手であると同時に大学院学生でもある。
惑星地球概論、気象力学(ほとんど熱力学と流体力学)、数学解析の3科目を受講した。
ワシントン・スクエアの数学の授業にでた。先生はしゃべりまくる、だけ。3週目4週目、ときたが分からない。
整数、有理数、無理数、数が切れるとか切れないとか。数式らしきものは出てこない。
間違った、わたくしが必要なのは応用数学とか物理数学と呼ばれるものだった。
夜8時に授業が終わり、いつも隣に座る男が分かれるとき、ボソボソと言う。わたしはグッナイ、と言う。
次の週も同じ。わたくしには、蛸と胃、に聞こえる。翌日同僚に訊いた。タコとイーだが、なんの意味だ、と。
何回も発音させられた挙句、大笑い。「Take it easy !」だろ、と。
ケネディとフルシチョフの緊迫感あふれるキューバ危機の最中、疲れた顔をしていたのでしょうね。

8.ショットガンは弾丸二発

 一年が過ぎた。行くところもなく休暇はとらず、夏期学期は数学に専念した。
 二年目の履修申請にワシントン・スクエアに行く途中、地下鉄でピアスン先生に会った。
騒音の電車のなかで、ドクターまでやるなあ、と言う。助手にはせめて平均A-が要求される。
成績が悪かったし、修士M.S.ぐらいで、と思っていると言うと。お前の成績は調べた。
サマーセッションの数学は最高であった。数学ができるものは評価する、首にはしない、と言う。
信じられない嬉しい話だが、消えていく先輩を多く見ていて即答はできなかった。
 日本男児、そこまで言われて退却はできない。翌年1月、やる、と返事した。
アメリカの大学は常に試験と宿題である。
さらに博士になるには授業とは別に3月から数学、物理、気象力学、海洋物理の順で博士候補者筆記試験が
始まる。数学から始まり翌週成績発表。
パスしたもののみが次週の物理に臨むサドゥンデス方式で2ヶ月の長丁場だ。
10数人でスタートした試験になんと私だけが生き残った。
6月に全教授が出席し黒板の前で2時間の口述試験となった。
 言葉は不十分、専門知識も不十分、もちろん不合格。その年は博士候補者0 。
とぼとぼと研究室に帰ると、仲間が、残念だった、とニコニコと慰めてくれる。
おれは言った、来年受けるし、来年もダメなら再来年も、と。すると言うではないか、試験は2回だけ。
ショットガンは弾丸二発。お前はもう一発撃ってしまった、と。知らなかった。
どうりで連中は受けないのだ。アメリカはどんな試験も2回だった。

9.ネコがドイツ語を知っているか

 翌1965年6月、博士候補者となった。
まだ単位も取り論文も書かねばならないが、博士要件に全米外国語共通試験で独、仏、露の3カ国語から
2カ国語選択して合格、があった。まずフランス語、640点満点で400点台半ばぐらいでOKと聞いていたが、
結果は300点台半ば。不合格。隣の助手はドイツ語で-30点台。なにっ、マイナス ?
マルチョイ式の試験で、答えは5つから選択。正しければ16点、間違えばマイナス4点。
誤答が4つあるから合計-16点、無作為に選べば期待値は0点。
日本では合えばプラス、間違っても0点、と言うと、それではネコやイヌをつれてきても結構いい点をとるではないか。
日本のネコはドイツ語を知っているか、と言う。ネコより劣る点をとったやつが胸を張って言う。アメリカです。



10.着艦失敗 早く

研究室の隣では計算機の磁気テープが回り、ラインプリンターが音をたて最初に見たときは感動した。
波の理論は50年代から60年代に大きく発展し、それらを組み込んだ数式をつくり
科学技術計算用言語FORTRANでプログラムし計算する。  

ある日、ピアスン先生がわたくしの研究室にきて言う。
海軍から電話があり、昨日は4機も着艦失敗した。早く新しい波浪予報法を仕上げろ、と。
ベトナム戦争は激しくなり、南シナ海では空母からF-4ファントム戦闘爆撃機が飛びたち、北爆し被弾し、
帰ってきた艦載機を迎えるのは、揺れる飛行甲板。着艦失敗。
戦時中の子供は、神戸一中に行って海軍兵学校、そして北太平洋でアメリカ海軍と、と思っていた。
それがわたしの給料(450ドルに昇給していた)も研究費もすべてアメリカ海軍アカウントであった。
明日、明後日、の波浪予報をし、揺れない海面に機動部隊を展開、空母からの発着艦、洋上補給作戦、
さらに揺れない艦船をつくる。攻撃目標は明確であり、頭は「軍艦マーチ」が鳴り、私の波の予報研究は一気に進んだ。

11.夢のオマケは ブリタニカ百科事典

1967年10月、博士(Ph.D.)の学位を取得した。Mr.InoueからDr.Inoueになった。
ろくにしゃべれず試験にはよく落ちたわたくしが、気がつけば同期入学ではトップだった。
ニューヨークのじつに密度の濃い生活だった。まさに青春だった。
昭和49年、TBSブリタニカの社員が神戸商船大学にきて、ブリタニカ百科事典1972年版の日本語版を出すが、
わたくしの論文の図が2枚入っている、その使用許可を貰いたい、とのこと。
なるほど原本の「Wind Waves」の項には、わたくしの研究の記述があり図が2枚も入っている。うれしかった。


多くの皆さんにお世話になりました。有難うございました。心から感謝します。
どうしてあんなに元気だったのか。若かった、としか言いようがない。
やはり、酔っ払っていたのかな。あれから50年、半世紀が経った。
閉塞感いっぱいの日本、腹がたつことばかりの今。


この今、が夢で、ハッ、と醒めたら、ニューヨークだった、と、ならないか。